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福岡高等裁判所 昭和58年(う)757号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中七三〇日を原判決の刑に算入する。

当審における訴訟費用は、全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人上田國廣が差し出した控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意第一(訴訟手続の法令違反の主張)について

所論は、要するに、司法警察員西田直也外二名作成の昭和五六年四月八日付「警察犬による物品選別結果報告書」と題する書面(以下、「西田報告書」という。)及び佐賀県技術吏員原田富男作成のポリグラフ検査書(以下、「本件ポリグラフ検査書」という。)は、いずれも証拠能力がないものであるのに、原判決が、刑訴法三二一条四項によりこれらをいずれも証拠として採用したのは、訴訟手続に法令の違反があり、その違反は判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

一  西田報告書の証拠能力について

所論が、西田報告書に証拠能力がない理由として挙げるところは、おおむね次のとおりである。

1  一般に、犬が個人臭を識別するメカニズム・根拠については科学的に解明されていない。

2  使用された警察犬の臭気識別能力についての裏付けが十分でないし、指導手の経歴も不明である。

3  原臭とされている足跡臭につき、本件の足跡の状況、足跡から臭気を採取した経過に照らし、足跡臭を採取することがどの程度可能であるかが明らかになつておらず、そもそも足跡に臭気が残るメカニズムも不明である。

4  対照臭とされている遺留靴下についても、保管方法が適切ではないため、発見者や保管にあたつた鑑識課員の臭気が混合した可能性を否定できず、対照臭としての適格性を欠いている。

5  選別の際の原臭・対照臭と誘惑臭との間における臭気の濃度が平等に設定されていないため、警察犬がその濃淡の差によつて選別した疑いがある。

そこで、検討すると、関係証拠によれば、なるほど、犬が臭気を識別するメカニズムについて科学的な解明・裏付けは得られていないことが認められるとはいえ、一般に臭気の識別につき犬が人間よりはるかに高い能力を有し、個々人の体臭を嗅ぎ分けることができることは、経験的に確かな事実であり、その中でも臭気識別能力の特に優れた犬を選び出して警察犬としての訓練を施すことにより、個人の臭気の異同を高度の正確性をもつて識別することができる状態に達し得ることも、経験上明らかなところであるところ、その識別のメカニズムが科学的に解明され、裏付けられているならば、その信用性を検討するうえで、より望ましいことではあるが、その点が証拠方法としての一般的適格性を認めるために不可欠な要件ではないことは、そのメカニズムが明らかにされているとはいえない記憶に基づく供述証拠についてすら同様に当てはまるところであつて、そのようなメカニズムの解明、裏付けがなくても、その正確性が実質的、経験的に裏付けられているものである以上は、証拠方法としての一般的適格性を有するものというに妨げないものというべきであり、したがつて、警察犬による臭気選別の結果自体について、犬の臭気識別のメカニズムの解明等を欠くからといつて、一般的に証拠能力がないものとすることはできない。しかし、臭気選別については、所論も指摘するとおり、そのメカニズムが科学的に裏付けられるには至つていないがために、その信用性、信頼性は当該警察犬の選別能力についての過去における判定結果ないしは実績という経験的事実に主として依存しているものであり、しかも、当該検査に際して置かれたその警察犬の状態、殊に、その体調、情緒等の要因によつても、識別の正確性が左右されるものであるほかに、当該の選別検査において犬が二個以上の臭気が同一であるとして識別している根拠及びその正確性については、通常の鑑定における場合と異なり、記録等に基づき具体的に検討を加えることにより判断することは全く不可能であり(所論が、犬に対する反対尋問が不可能であるというのも、その趣旨に理解される。仮に、検査の際犬が気まぐれに持来したものがあつたとしても、臭気が一致したために持来したものと認めることになる危険が大きい。)、しかも、後に再び同一の検査を実施することも事実上不可能である場合が多い。このような証拠方法自体の有する性質上の制約に鑑みると、臭気選別の結果を犯人か否かを判定するための直接的証拠として用いる場合には、それを補うものとして、選別結果の信頼性を担保するための十分な情況的保障が必要とされなければならず、したがつて、その選別検査の結果に証拠としての適格性を認めるためには、当該警察犬の識別能力が選別検査に信を措き得るだけの高度の水準に達しているものであり、それが過去の資料、実績によつて裏付けられていることを必要とするばかりでなく、その警察犬の能力が当該選別検査の時点において維持され、それが支障なく発揮されていることを保障するための必要・不可欠の諸条件、すなわち、その時点における警察犬の選別能力が正常に発揮されていることを確認できる方法が採られていること(もつとも、検査が多数回行われることによつて自ずからこれが確認されることもあるから、予備選別の方法により確認されていることが不可欠の要件であるとまではいいがたい。)、当該警察犬の体調、情緒の安定状態などの点を含めて、異常の有無を知り、その犬が従順に指示に従うようにこれを十分統御することのできる、資格ある指導手等によつて、検査が実施されていることを必要とし、加えて、例えば臭気以外の要素による選別を招くおそれを生じさせるような、選別検査を無意味にしかねない著しく不適切な方法が採られていないこと、臭気を採取する対象自体及びこれらの保管状態並びに臭気を採取する過程等において、原臭及び対照臭の間に同一の他人の体臭その他の臭気が混合するようなおそれのある情況が存しないこと(換言すれば、混合した別の臭気によつて選別されることになるような危険性を伴う情況のないこと)をも要するものと解するのが相当である。

そこで、まず、右選別検査に使用された警察犬のカストール・フオン・チクゼンウチダ号(通称カール、以下「カール」という。)の臭気選別能力について検討すると、関係証拠、殊に、原審第一一回及び第一二回各公判調書中の証人小川泉の供述部分によれば、カールは、当時選別能力の高い年齢とされる生後六歳であつて、警察犬訓練学校で高等過程までの訓練を修了し、警察犬の九州地区の大会で二年連続優勝を飾り、全国大会でも三位になつたことがあるほか、この種の大会において常に上位にランクされ、多数の賞を得た経歴の警察犬であつて、その能力は警察犬の中でも特に優秀と判定され、日頃の訓練も十分なされ、かつ、一〇〇回を超える出動経験を有していたことが認められるのであつて、その能力、経歴等に照らしてその選別能力は特に高度のものと認めることができるうえ、他方当日正午ころから行われた選別検査においてカールの指導手を勤めた小川泉は、その警察犬の所有者であり、カールについては、その性質、体調、情緒の状態等につき十分な理解と知識を有し、かつ指導手としての十分な訓練も受け、カールとともにしばしば出動していたことが認められ(なお、所論の指摘するように、警察犬の大会等で指導手を勤めたのは、主としてカールの訓練に当たつていた警察犬養成施設の専門指導手であつたことが認められるが、所有者の小川泉が指導手として選別を行つたからといつて、選別結果の信頼性に疑問を抱かせることを窺わせるような事情は見いだせない。)、したがつて、使用した警察犬の選別能力及び指導手の適格性について、所論のような疑問はないものということができる。そのうえ、選別の方法についても、関係証拠、殊に、原審第九回公判調書中の証人西田直也の供述部分によると、予備選別の方法に不適切な点もなく、その結果も良好であり(三回実施し、いずれも対照臭を持来した。)、原臭、対照臭及び誘惑臭は、いずれも無臭ガーゼに臭気を移行させた移行臭を用いて行うなどの方法によつていること、原臭は警察官原英己及び同蒲原正博が、対照臭のうち靴下についてはその発見者石橋和幸、鑑識班の西田盛太及び警察犬指導手の小川泉が、遺留車両のドアの取つ手については警察官吉永正がその採取あるいはその保管に関与し、したがつて、それぞれ別々の者の手でなされていることが認められ、また臭気採取の際などに対象物あるいは移行臭を採取したガーゼに第三者の共通の臭気が付着してその臭気が警察犬により識別されることになるおそれを生じさせるような情況はなかつたこと、その他警察犬による選別検査を無意味にしかねないような著しく不適切な方法がとられたことはなかつたことを認めることができる。以上の事実によると、本件選別検査の結果については、証拠とすることについての適格性を有するものと認めるのが相当である。所論の指摘するその余の点については、その証明力に関するものであり、証拠としての適格性については、以上の要件で足りるものというべきである(証明力の点については後に検討する。)。そして、西田報告書は、臭気選別を実施した司法警察員である西田直也ほか二名の作成になるものであつて、特別の専門的知識を有する者の作成したものとはいいがたく、これに立ち会つた者が選別検査の状況をありのまま記載した書面というべきであるから、刑訴法三二一条三項の検証の結果を記載した書面として証拠能力の有無が検討されるべきものであるところ、その作成の真正の点については、原審第九回公判調書中の西田直也の供述部分により明らかであるから、伝聞証拠の点においても証拠能力を認めることができる。

以上のとおり、使用された警察犬の選別能力及び指導手の適格性に関する疑問点は特に見いだされず、検査方法やその資料となる臭気の採集過程に特に問題のないことが認められ、伝聞証拠の点でも刑訴法三二一条三項の要件を満たすものであるから、原判決がその証拠能力を認めてこれを証拠として採用したことに誤りはないというべきである(原判決は、同条四項により証拠能力を認めているが、理由を異にするに過ぎず、結論において正当である。)。したがつて、この点についての所論は採用できない。

二  本件ポリグラフ検査書の証拠能力

所論は、要するに、ポリグラフ検査は、その信頼性が高いとはいえないものであるから、証拠能力を一般的に否定されるべきであるのみならず、本件検査については、検査者が経験に乏しくその適格性に疑問があり、また、検査方法にも科学的な裏付けを欠き、本件における緊張最高点質問法及び対照質問法の検査のために作成された質問表の構成並びにこれらの検査結果の判定等についても、科学性が認められず、技術的にも極めて不適切であるから、証拠能力を否定されるべきである、というのである。

そこで検討するのに、当審証人山岡一信及び同大西一雄の各証言並びに当審で取り調べた右両名それぞれの作成にかかる各鑑定書によると、ポリグラフ検査には、緊張最高点質問法(POT)と呼ばれるものと対照質問法(CQT)と呼ばれるものとの二種類の方法があり、通常右二種の方法を併せて実施されていること、前者は被検査者が述べたくないと考えられる特定の事実についての認識あるいは知識を有するか否かを判定し、後者は有罪意識の有無を判定するものであるが、その理論の細部についての見解の差異はあるにせよ、それぞれの検査方法について、十分な理論的裏付けのあること、ポリグラフ検査は、その理論及び検査方法を習得した検査者によつて、正常に作動する測定機器を用い、右理論に従つた質問法に基づいた適切な方法で施行されれば、相当高度の信頼性のあることが経験的にも実証されているものであつて、一般的に信頼性が低いということはできないことが認められるから、右のような検査者としての適格性の認められる検査者により、右の理論及び方法に沿つて施行された検査結果には、証明力の程度は別として、それぞれの判定の直接の趣旨、すなわち、緊張最高点質問法については特定事実の認識あるいは知識を有するか否かにつき、対照質問法については有罪意識の有無につき証明する証拠としての適格性を認めるのが相当であり、加えて、直接被検査者の供述を得るものではないが、質問に対して答をさせる方法で検査を行うという特殊性に鑑み、検査を受けることについての被検査者の承諾を得た場合にのみ証拠としての許容性を認めるのが相当であると解されるところ、関係証拠によると、本件ポリグラフ検査を実施した技術吏員原田富男は、昭和五四年四月からポリグラフ検査の補助者として検査技術を習得し、昭和五五年一月から約一か月間、科学警察研究所でポリグラフ検査についての理論及び方法につき技術研修を受けたうえ、同年三月ころから自ら検査を担当し、被告人に対する本件検査が行われた昭和五六年六月一二日までの間に、約六〇名について検査を施行した経験があつて、同人はポリグラフ検査者としての適格性を有する者であると認められるうえ、本件検査は、検査歴も長い上司の宮地良雄の立会いのもとに行つていること、検査について使用された機器は、昭和四七年に警察庁から佐賀県警察本部に配付されたKT―1型であつて、それまでのTRP型よりは性能のよいもので、記録用紙(チヤート)に呼吸波、皮膚電気反射及び脈波を同時に記録する方式のものであり、機器に故障等はなく正常に作動していたこと、緊張最高点質問法及び対照質問法の双方について検査が実施されたが、その質問の作成及び検査の実施についても通常の方式に従つてなされていて、通常の検査基準を充足していること、検査に先立ち被検査者である被告人の承諾を得ていることが認められるから、本件ポリグラフ検査結果については証拠としての適格性、許容性を認めることについて妨げとなる事由を見いだすことができない。そして、その検査結果を記載した本件ポリグラフ検査書は、原審第一四回及び一五回公判調書中の証人原田富男の供述部分により、鑑定の経過及び結果を記載した書面として、真正に作成されたものであることが認められるから、刑訴法三二一条四項により証拠能力があるものといわなければならない(なお、証明力の範囲及び程度については、後に検討する。)。

所論に鑑み、以下説明を補足すると、前記当審証人山岡一信の証言及び同人作成の前記鑑定書によれば、ポリグラフ検査は、未だ検査機器の性能及び質問法についての理論的・技術的検討が十分でない時代に比較すると、その後の機器の改良及び質問法の改良により検査結果の精度が向上し、対照質問法が取り入れられ、緊張最高点質問法と併用されるようになつてからは、その精度が更に向上し、我国における比較的最近の調査では、約八年間にわたる検査例九二五人につき、陽性とも陰性とも判定困難なものの比率は五・二パーセントであり、陽性判定例(全体の六一・五パーセント)中事件が証拠により解決しているものは八六・三パーセントであるが、事件解決の結果とポリグラフ検査結果とが一致した比率は一〇〇パーセントであり、陰性判定例(全体の三三・三パーセント)中同様に事件が解決しているものは五五・八パーセントであるが、事件解決の結果とポリグラフ検査結果とが一致したものは九八・八パーセントであるとする結果の報告もなされている(この結果は、陽性と判定されたものについて見る限り、事件未解決の分がすべて誤りと仮定しても、八六・三パーセントが一致することになることを意味するもので、未解決事例中に犯人ではないものも含まれている可能性を考慮しても、解決された事例の一致率からして、その正確性は右の数字をかなり上回るものと考えられる。)という事実をも指摘して、最近のポリグラフ検査結果の信頼性が高いというのであり、右の報告については、当裁判所において、その調査の方法、内容等についての検討までしているものではないから、その報告についてはある程度控え目に考慮する必要があるとしても、右証言及び鑑定書によりポリグラフ検査の信頼性は、最近では相当高度であることを認めるに足りるものということができ、前記大西証言がポリグラフ検査については検査の方法、経過、検査記録の検討及び判定につき十分慎重でなければならないことを強調していることを考慮に入れても、前記のような要件の下にポリグラフ検査の結果に証拠能力を認めることは許されるものと解するのが相当である。諸外国の立法例には、ポリグラフ検査の結果は証拠として許容しないとするものもあるが、このような証拠を許容することによる弊害も考えられる陪審制、参審制等を採用している裁判制度とは異なる我国の制度のもとでは、これを一律に証拠として許容しないとしなければならない理由はないというべきである(最高裁判所昭和四三年二月八日第一小法廷決定・刑集二二巻二号五五頁参照)。その他本件の検査における個々の質問の構成、検査方法の巧拙、検査結果の判定内容につき所論の指摘する部分は、いずれもポリグラフ検査結果の証明力に関するものであつて、証拠能力の要件となるものではないと解するのが相当である(これらの点については、証明力についての検討において言及する。)。

以上のとおり、原判決が、西田報告書及び本件ポリグラフ検査書について、いずれも証拠能力を認め証拠として採用したことは正当であつて、原判決には所論のような訴訟手続の法令違反はなく、論旨は理由がない。

控訴趣意第二(事実誤認及び法令の適用の誤りの主張)について

所論は、要するに、原判示第一の事実につき、犯人は被告人ではなく、被告人を有罪と認定するに足りる情況証拠はないのであるから、被告人は無罪であるのに、原判決は、臭気選別に関する前記西田報告書及び司法警察員徳永快人外二名作成の「警察犬による物品選別結果報告」と題する書面(以下、「徳永報告書」という。)並びに「本件ポリグラフ検査書」に信用性を認めたうえ、原判示のいずれも証明力の弱い情況的事実を認定し、これらを総合して被告人を有罪と認定したのは、事実を誤認し、かつ「疑わしきは被告人の利益に」という刑事訴訟法の基本原則の適用を誤つた点において、法令の適用を誤つたものであり、右誤認及び誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのであるが、所論のうち、法令適用の誤りをいう点は、実質において、事実誤認の主張にほかならないと認められるから、右所論は、結局事実誤認の主張に帰するものである。

そこで、判断すると、臭気選別に関する西田報告書及び徳永報告書にはいずれも高度の信用性を認めることができるのであつて、これらを含む原判決挙示の関係各証拠(但し、本件ポリグラフ検査書を除く。)を総合すると、結局原判示第一の事実を認めるに十分であつて、記録を精査し、当審における事実取調べの結果を検討しても、原判示の右認定が誤りであるとの疑いを抱かせる証拠を見いだすことができない。以下、所論に鑑み、主たる争点について判断する。

関係各証拠によると、原判示第一のとおり、昭和五六年四月八日午前七時三五分ころ、佐賀県武雄市西川登町大字神六地内にある市道矢筈線上の原判示場所(別紙本件現場付近略図(以下、単に「図面」という。)〈1〉の地点)において、通学途上の井手友子(当時一七歳、高校生)に対し、顔面にストツキング様のもので覆面したうえ、右道路東側にあたる山側の草むらに潜んでいた男が、菜切り包丁様の刃物を突き付けるなどしたうえ、同女を道路西側の斜面下の草むらに連れ込み、更に、「俺の言うことを聞いたら殺さん。」「あんたもわからんとこがよかやろ。」などと脅したうえ、右市道を横切り、東側の山中へと引つ張り込もうとするなどの暴行、脅迫を加えたが、たまたま市道上を接近してきた車両があり、同女が助けを求めたため、犯人が発覚を恐れて東側山中に逃走したため、強姦の点は未遂に終わつたものの、これらの暴行により、同女に対し、全治三日間を要する左右下腿部散在性線状切創、左右膝擦過創の傷害を負わせたという事実が認められるが、被告人は、捜査段階から一貫して右の犯行を否認しているところ、原判決が被告人と右犯行を結び付ける情況的事実として認定した事実はおおむね次のとおりである。

1  本件犯行時刻の約三〇分前である同日午前七時五分ころ、前記市道上で本件犯行現場よりやや北寄りの地点を被告人の乗用車が北上しているのをすれ違つた車両の運転者により現認されており、本件犯行時刻の直後ころ、本件犯行現場の西側の尾根を越えた反対側の地点(図面〈2〉の地点に当たる。)に、被告人の乗用車が放置されているのを、わらび採りをしていた者により発見されており、被告人は、右乗用車をその後も同地点にそのまま遺留していること、

2  被害者の目撃した犯人の身長、体格が被告人に似ており、目撃にかかる着衣も、右遺留車両内にあつたものと類似していること、

3  犯人が逃走した山中に向かう地点に犯人のものと認められる足跡があり、それから採取された臭気が、当日右山中の雑木林内の小道の脇(図面〈3〉の地点に当たる。)に遺留されていた一足の靴下の臭気及び遺留車両の運転席右側の扉の取つ手から採取された臭気に一致する可能性の極めて高いことが、当日行われた警察犬による臭気選別検査の結果判明しており、その結果によると、被告人が犯人である蓋然性が高いこと、

4  ポリグラフ検査結果のうち、緊張最高点質問法の一部及び対照質問法の各検査結果については、質問表の作成に疑問があつて、直ちに採用できないが、その余の検査結果から、被告人が本件犯罪事実についての認識を持つていた疑いがあると認められること、

5  これらの事実から、被告人は、犯行の約三〇分前に犯行現場付近を被告人の乗用車で通過した後、同車両を遺留した場所に至り、尾根を越えて前記市道沿いの川を渡り、市道上の犯行現場に至り、犯行後は一旦東側の山中に逃走し、靴下を遺留した後、再び遺留車両に立ち戻り、着替えをしたうえ徒歩で逃走したものと認められること。

おおむね以上の事実を認定したうえ、被告人の本件犯行時前後における行動についての弁解には、変遷があるのみならず、客観的事実と合致しない点や、不合理な点が多く認められ、殊に、犯行当日の午後に、現場からそれほど遠くない原判示野々川地区の野沢方(図面〈4〉の地点に当たる。)に現われ、同所から、タクシー乗車した者が被告人である疑いが非常に強く、その点に照らしても、弁解は信用できないとして、これを排斥している。なお、関係証拠により認められる本件犯行場所及びその周辺の位置関係は、図面のとおりである。

これに対し、所論は、要するに、1 前記のとおり臭気選別検査の結果及びポリグラフ検査の結果について信用性がないのみならず、2 犯人の体型、着衣によつては被告人か否かを特定するにほど遠く、3 被告人が犯人とした場合靴下を山中の雑木林に遺留することについての合理的理由を見いだせないし、被告人の靴下であることを示す他の証拠もないのであり、4 原判決の認定する被告人の車両遺留地点から犯行現場、その東側山中の靴下遺留地点を経て、再び前記車両遺留地点に至る経路はあくまで推測であつて、他の証拠により裏付けられていない事実であるばかりか、かなりの急斜面の山中に逃げ込んでいる以上は、その着衣や靴に必ず土砂、草の実等の付着や繊維に小さな断裂痕が見られるはずであるのに、着替えられたとされる衣類等にそのようなものが見られず、6 野々川地区から、タクシー乗車した者が被告人である疑いが非常に強いとする点については、被告人の弁解が信用できないとする重要な根拠とされているが、その者が被告人と認めるにはほど遠いのであつて、別人であると考えられ、7 犯人であれば警察官が配備につく前にいち早く被告人の車両で逃走を図つたはずであるから、車両を放置したことは被告人にむしろ有利な事実ということができる、というのである。

本件では、被害者である井手友子が、犯人の襲撃を受け、刃物を突き付けられるなどして脅迫され、恐怖心から動転してしまい、また犯人が覆面をしていたこともあつて、その人相についてはもとより着衣についても必ずしも明確には認識・記憶しておらず、目撃者もこれらの点につきほとんど特定できないため、犯人の人相や着衣のみからは犯人を特定するには足りず、結局、臭気選別の結果と、被告人車の遺留の事実及びその場所的関係、被告人の同所における駐車及び遺留の目的ないし理由のいかんが、被告人と本件犯行を結び付ける情況として十分であるか否かにかかつているといつても過言でないと考えられる。そこで、まず、臭気選別結果の信用性につき検討する。

一  各臭気選別結果の証明力について

(一)  西田報告書の選別結果の証明力について

西田報告書は、本件犯行当日に行われた臭気選別検査の結果を記載したものであり、右選別検査は、前記のとおり、警察犬カールを使用し、現場に遺留された犯人の足跡から採取した臭気を原臭とし、犯人が逃げ込んだ山中の雑木林の小道の脇に遺留されていた靴下から採取した臭気及び被告人が遺留した車両の扉の取つ手から採取した臭気をそれぞれ対照臭として、実施されたものであるが、カールが臭気選別能力の特に優れた警察犬であり、予備選別の結果によつても、本件検査の際の識別能力に欠けるところはなく、指導手として、カールを十分に統御できる者が立ち会つていることは、前記認定のとおりである。したがつて、選別の資料及び方法が適切である限り、その選別結果の証明力は高いと認められる。

そこで、所論のうち、原臭として使用した足跡臭の採取の点について検討すると、関係証拠、殊に、原審第八回公判調書中の証人原英己、同第九回公判調書中の証人蒲原正博、同第一一回及び第一二回公判調書中の証人小川泉の各供述部分によれば、原臭としての臭気を採取した本件の犯人のものと認められる足跡は、犯行現場から約五、六メートル斜面を登つたところの二か所にあつたものであつて、犯行の約一時間半後である午前九時ころに、警察官原英己が、手袋をはめたうえ、足跡痕採取用のビニール袋入り石膏一〇個を入れてあつたビニール製の大きな袋をナイフで適当な大きさに切つたもので、右二か所の足跡を覆い、そのビニールの周囲を小石で押さえて臭気が逃げないように保存する措置を取り、午前一〇時三〇分ころ、警察官蒲原正博が、同様手袋をはめたうえ、無臭ガーゼをピンセツトではさみ、右足跡の上に載せて二、三回軽く押さえ、足跡の横を二、三回撫で、それを新品のビニール袋に入れるという方法で、各足跡から一枚、合計二枚のガーゼに臭気を採取したものであり、このような方法によつて、足跡の臭気を採取し保存することが十分可能であること、そして、そのうちの一方を選別検査に使用したカールにかがせて犯行現場付近からその臭気を追跡させたところ、犯人が山中に逃げていつた方向へと追跡を続けて行き、その上方にある石垣付近にまで到達し、更に犯行現場より市道を南に下つた方向に向けて、すなわち右の市道を見下ろす方向より左方に向かいやや下りながら追跡を始めたころ、靴下が発見されたという知らせを受けたため、追跡を打ち切つていることが認められるから、前記足跡から無臭ガーゼに採取された臭気は、それを嗅いだカールの追跡経路に照らして、犯人の体臭の含まれているものであることを優に認めることができる。したがつて、選別検査の際、これを犯人の体臭が含まれている原臭として使用したことについて、所論のような疑いを生じさせるような状況はなかつたものというべきである。

次に、所論のうち、対照臭として用いた靴下から臭気を採取した過程について検討すると、関係証拠、殊に、原審第八回公判調書中の証人石橋和幸、同第一〇回公判調書中の証人西田盛太の各供述部分によれば、石橋和幸は、午前一〇時少し前ころ、雑木林の中の小道の脇(図面〈3〉の地点)の灌木の枝の上に靴下一足が掛かつているのを発見したが、これに直接手を触れたことはなく、竹か木の棒で拾い上げて、一旦林の外の道端に積み上げられた古電柱の上に置き、午前一一時過ぎころ、木の棒に下げて犯行現場まで持ち帰り、鑑識班の警察官西田盛太に引き渡したが、同警察官は、終始手袋をしてこれを取り扱い、付着物の確認をするため裏返しにしたうえ、別々にビニール袋に入れて保管したことが認められ、その取扱いはおおむね慎重になされているものということができ、その間に他人の体臭が混入することが全くないとまではいえないにしても、訓練された犬が識別に困難を来すことになるおそれのあるような程度に至る状況はなかつたものということができるから、所論のように、対照臭としての臭気採取の過程に不適切な点があるということはできない。なお、原臭と対照臭とに犯人とは別の同一人の体臭が混入した場合には、その選別において、双方の臭気の一致が生ずることがあるけれども、前記認定のとおり、原臭は警察官原英己及び同蒲原正博が(右関係証拠によると、原臭の足跡臭は、蒲原が、手袋をはめピンセツトを用いて無臭ガーゼに採取し、ビニール袋に入れて口を結び臭気の混合の生じない措置を講じたうえ、同人のズボンの後ろポケツトに入れて保管したことが認められる。)、対照臭のうち靴下については石橋和幸、鑑識班の西田盛太及び指導手小川泉が、遺留車両のドアの取つ手については警察官吉永正が臭いの採取に関与し、したがつて、それぞれ別々の者の手でなされていることが認められ、原臭と対照臭の間にそれぞれ同一人の体臭が混合するに至つた情況は窺われないのであるから、そうである以上、仮に、所論のように、靴下の発見者やその保管に当たつた者の体臭が混合したことがあつたとしても、警察犬が対照臭を誤つて持来するおそれはないと考えてよい。なお、被告人の遺留車両の扉の取つ手からの臭気採取の過程を検討しても、不適切な点は何ら認められない。

更に、選別の方法についても、関係証拠、殊に、第九回公判調書中の証人西田直也の供述部分によると、予備実験の方法に不適切な点もなく、その結果も良好であり、選別台を風上に設け、臭気ガーゼの設置にあたつては、カールに反対方向を向かせるようにして行つていることが認められ、なお、対照臭の設置位置は、所論の指摘するとおり、選別台の五か所の位置のうち左右両端及び中央の位置のみとなつているけれども、カールの探索経路を検討して見ると、そのことが結果に影響していることを窺うことはできないものと認められる。そして、関係証拠によると、所論のように、誘惑臭(別人の体臭、本件では立会人の中から採取されている。)として採取された臭気の方が、原臭及び対照臭よりも、その濃度が高いことが窺われないではないが、識別能力が優秀と評価されている警察犬は、極端な場合はともかく、少なくともある程度の臭気の濃度差によつては影響されないように訓練されているからこそ、優秀とされていると解されるから、本件においても、カールが体臭の濃度差により影響を受けたものと認めることはできない。

そのうえ、特に注目されるのは、西田報告書によると、カールは、予備選別及び本選別の全過程を通じて、すべて対照臭を正確に持来していて、選別できないまま断念したことは一度もないし、ましてや誘惑臭を誤つて持来したこともなく、しかも、選別の際、迷つて行きつ戻りつした形跡がないことが認められるという点であつて、このことは、右選別結果の信用性が高いことを示しているものといわなければならない。

以上のとおり、選別検査に使用されたカールの臭気識別能力の優秀性をはじめ、選別方法や経過、臭気の採取、保存方法等の諸事情を総合考慮すると、犯人の足跡臭と、被告人車両の扉の取つ手から採取された被告人の体臭とが一致する蓋然性は極めて高いと認められ、同様に靴下も被告人の遺留した物である蓋然性が極めて高いと認められる。

(二)  徳永報告書の選別結果(第二回選別検査の結果)の証明力について

徳永報告書は、被告人逮捕後、本件より二か月半以上後の昭和五六年六月二九日に行われた臭気選別の結果を記載したものであり、右選別検査は、前記遺留にかかる靴下から採取した臭気と、被告人が勾留中にそれぞれ使用していた掛けふとんカバー及びゴム草履から採取した各臭気との、同一性の有無を判定するために実施されたものである。

そこで、その証明力について見るのに、関係証拠、殊に、原審第一〇回公判調書中の証人西田盛太、同第一一回及び第一二回各公判調書中の証人小川泉、第一七回公判調書中の証人徳永快人の各供述部分並びに右徳永報告書によると、検査に使用された警察犬は、前回と同一のカールであり、指導手も同様に飼い主の小川泉であること、検査の実施方法も基本的には第一回選別検査と同様の方法によつており、格別不相当な点は窺われないこと、予備選別では、指導手である小川泉の体臭を原臭及び対照臭とし、本選別では、前記靴下からの移行臭を原臭とし、まず(ア)同一の靴下からの移行臭を、次いで(イ)掛けふとんカバーからの移行臭を、更に(ウ)ゴム草履からの移行臭を、それぞれ対照臭として用いて選別を行つた後、最後に(エ)右ゴム草履臭を原臭とし、掛けふとん臭を対照臭として選別を行つたこと、選別は、同一の組み合わせ毎に三回ずつ行われ、本選別の最後の、ゴム草履と掛けふとんカバーの組み合わせについてはカールが選別を断念したことが二回あつたため、合計五回行われたが、右二回の断念のほかは、すべて対照臭を持来し、誤つて誘惑臭(別人の体臭)を持来したことは一度もなかつたこと、そして、原臭として使用された靴下は、発見当日からビニール袋に入れ、臭気の揮散を防ぐためガムテープで密封されて保管されていたものであり、そのような方法によれば、事件後二か月半以上経過した時点でも体臭の保存が十分可能とされており、原臭の保存の点でも適切を欠いたところはないこと、対照臭として使用された掛けふとんカバー及びゴム草履は被告人が留置場内で使用していたものをそのまま押収して、ビニール袋に密封保存したものであり、選別検査は押収の二日後に行われていること、右(イ)及び(ウ)の原臭と対照臭との間に他人による共通の臭気が混入しそのために選別結果に誤りが生ずるような情況は特になかつたことを認めることができる。

ところで、原判決は、第二回選別検査の際における警察犬の選別能力には疑問が持たれるとし、したがつて、被告人が犯人であるとする積極的な証拠としてこれを用いることは相当でないとしており、その理由として、予備選別で用いた臭気として指導手自身の体臭を原臭及び対照臭として用いている点において不適当であること、本選別最後に実施されたいずれも被告人の臭気が付着しているゴム草履と掛けふとんカバーの各臭気との間の同一性を識別する検査において、五回の検査のうち、二回持来せず、持来した三回のうち、二回についてはくわえ落としがあることを挙げている。しかし、右の選別検査のうち、予備選別並びに本選別中(ア)及び(エ)の三組の選別(合計一一回)については、もともと同一の臭気を原臭及び対照臭としているものであるから、結局は、警察犬の選別能力を見るための検査にほかならず、カールがこれらのうち九回について間違いなく選別することができ、かつ、選別を断念したことはあつても、選別を誤つたことは一度もないという事実は、むしろ右検査時におけるカールの選別能力が十分であつたことを裏付けている事実であるということができ、右二回の断念や、くわえ落としのあつたことは、カールが次第に疲労してきたためと、別の警察犬が吠えて注意力散漫になつたためである可能性が高いこと(なお、徳永報告書によると、検査の際、かなり強い風が吹いていたことが認められ、それによる影響もないとはいえない。ちなみに、カールは、前回と比べると、全体として選別に手間取つていることが認められる。)、選別検査の目的である(イ)及び(ウ)の選別については、誘惑臭をくわえたことは一度もなかつたこと、カールの臭気識別能力は前示のとおり特に優れていることをも考慮すると、第二回選別検査の結果についても高度の信用性を認めることができるものというべきであるから、原判決の見解には、これと異なる限度において左袒できない。したがつて、遺留された靴下が被告人のものである蓋然性は、右選別の結果に照らしても極めて高いということができる。

(三)  以上の二回にわたる臭気選別検査の結果は、所論のように信用性に乏しいものということはできず、これらの結果のみによつても、被告人が犯人である蓋然性は相当高いというべきである。

二  本件被害発生前後における被告人の行動について

被告人の普通乗用自動車(ニツサンセドリツク、登録番号佐賀三三さ一一二六号)が、原判示のとおり、本件被害発生の約三〇分前である午前七時五分ころ、本件犯行現場のやや北方の地点を北上していたという事実は、原審第七回公判調書中の証人渡〓剛大の供述部分(以下、「渡〓証言」という。)中の右事実に沿う部分の信用性に疑問を差しはさむ余地がないことからして、動かしがたい事実であるということができる。すなわち、渡〓証言によると、同人は、当時いわゆる人夫出しの仕事をしていて、毎日ほぼ定刻に、決められた待合わせ場所に待機している人夫を集めて作業現場に送り届けていたものであるが、矢筈地区の待合わせ場所で人夫を乗せた後、右時刻ころ、本件犯行現場よりやや北寄りの地点に差し掛かつた際、登録番号の数字部分が「一一二六」であり、車型が同一のセドリツクで、塗色も同じようであり、ラジアルタイヤが取り付けられ、助手席に赤い花が飾られていたことなどの点でも、遺留された被告人車両の状態に一致する車両とすれ違つたが、右番号は、たまたま同人の弟の車両の登録番号と同じであり、それが「いい風呂」という語呂合わせになり覚えやすい番号であつたことから、偶然すれ違つた車両であるにもかかわらず、その番号を特に記憶にとどめているものであることが認められるのであつて、そのような記憶の根拠からすると、右供述の信用性について疑問を差しはさむ余地はないということができるからである。他方、被告人車両が、本件犯行直後ころである午前七時四〇分前後ころには、原判示の遺留場所(図面〈2〉の地点)に駐車されており、その後もそのまま駐車されていた事実についても、永石豊の司法警察員に対する供述調書によりこれを認めるに十分である。すなわち、同供述調書によると、永石は、当時新聞配達員をしており、当日は、バイクにより七時一〇分ころ野々川部落での配達を終えた後、原判示のとおり、わらび採りのため寄り道をしていて、被告人車両が放置されているのに気付いたのであるが、発見時刻の点も、同人のわらび採りの状況等に照らして、多少の幅はあるにせよ、おおむねそのころであると認めるのが合理的であるといえるから、その時刻の点についてもほぼ動かしがたい事実と認められる。以上の事実によると、被告人が、本件犯行時刻ころ、本件犯行現場またはその周辺にいたことは否定しがたい事実であるといわなければならない。

ところで、関係証拠によると、更に次の事実を認めることができる。

1  被告人車両が午前七時五分ころ通過した地点から、同車両遺留場所までの距離は二キロメートル未満であるから、同車両による所要時間は、被告人車両の速度を毎時約三〇キロメートルとすると、約四分に過ぎず、車両遺留場所から犯行現場までは尾根を越え徒歩で一〇ないし一二分であること(遠回りをしたとしても一五分も見れば十分であると認められる。なお、当裁判所の検証調書によると、尾根から本件犯行現場付近に至る傾斜の緩やかな小道があり、必ずしも急斜面を下る必要のないことが認められる。)、

2  前記原審公判調書中の証人小川泉の供述部分等によると、前記靴下の遺留場所は、カールが犯行現場から犯人の足跡から採取した臭気を追跡していて中断した延長線上にあり、また出動したもう一頭の警察犬であるイヴアール・フオン・ハクスイソウ号(ジヤツクと呼称される。以下、「ジヤツク」という。)は、前記靴下の臭いを本件犯行現場の南方の市道上で与えられ、その追跡のため歩き始めて、本件犯行現場から市道上を約二〇〇メートル南方の地点付近で、急に斜面を駆け登り、靴下が遺留されていた雑木林内の小道に出て、南東方向に少し下り遺留場所に至つて停滞した後、小道を戻り、カールが追跡をやめた方向にその小道の終点のところまで進み、また逆戻りして、駆け登つた地点から、もとの市道上に戻つていること、したがつて、犯人は、本件犯行現場から東側の山中に登つて逃走し、靴下遺留地点に至つた後、ジヤツクが駆け登り始めた市道上に降りたことが窺われること、

3  本件犯行現場付近から、ジヤツクが登り降りした右市道上の地点付近を見通すことは、必ずしも容易ではないこと、

4  警察への事件発生の通報は、午前七時四二分ころになされ、武雄警察署の警察官の乗車する武雄六一号の車両が本件犯行現場に到着したのは、その約一〇分後の午前七時五二分ころであり、午前八時ころには、他の警察官も駆けつけ、午前八時一〇分から二〇分にかけて道路主要地点の緊急配備が完了していること、午前八時二〇分ころ、矢筈地区の区長が、スピーカーにより、事件の発生したこと及び住民の参集を呼び掛け、参集した住民により午前九時ころから、犯人の逃げ込んだ側の山狩りが行われたこと、

5  午前九時ころから九時三〇分ころにかけて被告人車両の遺留場所に警察官が赴き、不審車として見張り等がされるに至つていること、

以上の事実に前記臭気選別検査の結果等の事実を総合すると、被告人が犯人であるとした場合には、車両遺留場所から尾根を越えて本件犯行現場に至り、犯行後東側の山中の斜面を登つて逃げ、更に斜面を下り、雑木林内の小道に出て靴下遺留場所に至り、履いていた靴下をその脇に投棄した後、逃走した(そして、後に検討する結果をも合わせると、その後、一旦市道に降りたうえ、再び前記の尾根を越えて車両遺留場所に戻つたが、犯行現場付近等に警察官らの姿を認めていることから、検問に会い逮捕されることを恐れて、車両をそのまま放置して徒歩で逃走することにし、同所で着替えをして変装した後、警察官に被告人車両が遺留されているのを覚知される前に同車両を離れて人目に付かないように逃走した)とする蓋然性が最も高いというべきであり、そのように推認する場合には、本件において取り調べた関係証拠に現れている事実を矛盾なく説明することができる。

もつとも、司法警察員三好利行外一名作成の昭和五六年六月二四日付捜査報告書によると、犯人が本件犯行現場から東側の山中に入り、靴下遺留地点に至る距離は、約三六〇メートル、所要時間は約一〇分であることが認められるところ、靴下遺留地点付近の小道に車両を停めていて犯行に及んだ可能性が全くないとはいいきれないけれども、その場合には、逃げ込んだ山の東側の道を通つて、車両遺留場所に至つたことが一応考えられるが、前記永石豊が被告人の車を目撃した時間との関係等の諸状況に照らして、そのような可能性は極めて薄いと認められる。

したがつて、被告人が犯人である場合には、前記のとおり、被告人車両の遺留地点から尾根を越えて犯行に及んだ蓋然性が極めて高いものと考えられる。

三  被告人車両を遺留場所に乗り入れた目的及びこれを放置したまま逃走した理由について

(一)  そこで、被告人が犯人であるか否かはひとまず措き、被告人が、午前七時一〇分ころ、本件犯行現場付近を通過した後、まもなく右車両遺留場所に至つたものであることについては殆ど疑いのないものといわなければならないところ、関係証拠によると、右遺留場所は、主要道路から離れた脇道の細い農道であり、乗用車としては行き止まりになる地点であるなど、たまたま通りかかる車両が駐車する場所としては、ふさわしい場所ではないと認められるから、被告人が本件犯行場所付近を通過してまもなく、いかなる目的でそのような場所にわざわざ赴いたのかが問題とされなければならない。しかし、被告人の弁解は、そもそも、午前二時ころ同所に至り、朝になるまで車内で眠つたとするものであつて、右認定事実とは明らかに異なる事実を前提とするものである点で信用できないばかりか(なお、被告人は、夜間車内で覚せい剤を注射しようとしたところを目撃されて、通報される危険を感じたが、車両が故障し、異常音を発していたために、人目につきにくい場所を選んで右駐車場所に隠れた旨の弁解をしているのであるが、右弁解は、そもそも車両の故障はなかつたと認められる点に照らしても、不合理であり、その弁解が信用できないことについては、原判決が「(判示第一事実の認定の経過)」(以下、「認定経過」という。)第七において正当に説示しているとおりである。)、朝方、何故にこのような場所にはいりこむ必要があつたのかについては、本件の場合、せいぜい仮眠をとるためということのほかには、ほとんど考えがたいのであるが、被告人は、そのような弁解をしているものではなく、かえつて、電話を掛けるために、車両を右場所に置いたまま、徒歩でかなり離れた場所(図面〈5〉の地点付近)まで出向いていたと述べて、車外に出ていたことを認める供述をしていることからしても、被告人が仮眠をとるために同所に至つたものとは認められない。近隣の者であればわらび採りに入つたということも考えられるが、通りがかりの者に過ぎないから、そのような可能性もほとんどないといえるし、仮に、そうであるならば、自らそのように弁解するはずである。また、窃盗等の何らかの別の犯罪を企てていたがためにその目的を明らかにできない場合であつたとしても、殊更虚偽と認められる前記のような弁解に固執しているのは、やはり不自然であると考えられる。これに反し、本件犯行を企てたためであると仮定するときは、犯行現場とは尾根を隔てているとはいえ、土地鑑さえあれば、短時間で現場に至ることができる場所であり、犯行現場付近に車両を止めた場合にはその登録番号から被告人が犯人であることが発覚する危険性が高いことを考えると、このように離れた場所に駐車する方法をとることについて、合理性がないとすることはできない。そのうえ、被告人車両が、本件犯行現場付近を北上した後、このような脇道に入り込み行き止まりの地点で駐車させ、車両から出て行動していることは、被告人にこの付近についてかなりの土地鑑のあることを窺わせるものというべきであろう。そうだとすると、被告人が、朝方このような場所に車両を乗り入れたことについては、本件の犯行目的に出たものであるとの強い疑いを抱かせるものというべきである。

(二)  次に、被告人が、右認定の状況のもとでその車両を放置して逃走したのは、被告人が車両遺留地点に戻ることができなかつたか、検問に会うことを恐れたためかは別として、少なくとも何らかの重大な犯罪が発覚して逮捕されることをおそれたためであることを推認させるものである。被告人は、波佐見の街の方(図面〈5〉の地点付近)に電話を掛けに行つたと述べ、あるいはその付近で検問をしているかどうかを見に行つたというように、弁解を変遷させているうえ、その帰路、被告人車両の方に向かう道に警察官の姿を認めて検問に会うことを恐れ、車両を放置しそのまま逃走したという弁解をしている。しかし、前記のとおり、車両の遺留場所に到着したのは、午前七時五分以降であり、それまでは、付近を走行していたのであるから、わざわざ不便な右の場所に駐車させたうえ、そこから車を降りて徒歩で行くことにする必要性も、合理的理由も認められないのであつて、右弁解が信用しがたいことは明らかである(記録及び当審における事実取調べの結果を検討しても、これらの弁解が信用できないことについて原判決が認定経過第七において詳細に説示しているところは正当である。)。そして、もし被告人が犯人でなく、現場付近に居合わせてたまたま事件に巻き込まれたというのであれば、矢筈地区のスピーカーによる呼び掛けも聞こえたはずであろうし、何故、いかなる事情の下に車両の放置を決意したのか、その間にいかなる行動をとつたのか等について、合理的な説明ができるはずであり、それによつて本件犯行とは無関係であることが明らかにできると考えられるのに、そのような弁解はされていない。そのような説明をすることは、たまたま遂行していた別の重大な犯行がその説明によつて発覚することになるような特別の場合でない限り、差し支えないはずであり、たとえばその付近の人家に窃盗目的で侵入しようとしていた場合であつても、処罰を免れる形で弁解することも十分可能である。本件では、証拠に基づき種々検討してみても、現場付近にたまたま居合わせて事件に巻き込まれたにもかかわらず、被告人がその事情を明らかにすることを妨げるような特別の事情の存在は窺われない。したがつて、本件の状況の下で被告人が車両を放置して逃走している事実は、それ自体、本件犯行の犯人であることを推認させる重要な情況的事実であるといわなければならない。

四  原判示野沢方に現れ、タクシーに乗車した者が被告人であることについて

原審第一三回公判調書中の証人野沢カツヨ及び同野沢一男の各供述部分、同第一四回公判調書中の証人池田政夫の供述部分及び同人の検察官に対する供述調書によると、当日の午後二時三〇分ころ、原判示野々川地区の野沢方(図面〈4〉の地点)に現れ、タクシーを呼んで乗車した男は、被告人と認めるのが相当である。

すなわち、右各証拠によると、野沢カツヨは、当日午後二時三〇分前ころ、野々川地区の同人方に通ずる農道(図面参照)沿いの畑から帰宅する際、後方からサングラスを掛けた男がついてきたが、カツヨが自宅の玄関に入るや、その男も入つてきて、腹を押さえて前かがみになり、体の具合が悪いというしぐさをしたので、夫の野沢一男を呼んだところ、タクシーを呼ぶための電話を頼まれ、一男がタクシーを呼んだこと、その男は疲れていた様子であり、道に迷つて歩いてきたと述べていたこと、タクシーを待つ間に、カツヨらから尋ねられて、佐世保から来たといい、免許証を忘れたことに気付いたため、車を裏の方に置いたままにして来たので、免許証を取りに戻ることろである旨述べていて、はからずも車両遺留の事実を述べていること(免許証不携帯という理由だけで不便な土地に車両を置いて遠方まで取りに戻るというのは、一般人の行動としては通常それほどまでのことはしないと思われるうえ、道に迷つて農道を野沢方に至つているという経過ともそぐわない感があるから、その男が免許証を忘れたといつているのは、虚偽であると認められるが、その男がそのような言葉を口に出したのは、車両を遺留していたことは事実であつたからであると解される。なお、タクシー車内では、免許証を忘れ、検問にあつたので、取りに戻るところである旨述べているが、野沢方では、そのように述べていないことが明らかで、これも虚偽と認められる。)、その男は、顔形(但し、サングラス着用のため人相までは明確でない。)、髪型(スポーツ刈り)、身長、がつちりした体型、年齢(四〇歳前後)等の点で、被告人と似ていることが認められ、野沢カツヨ及び野沢一男とも、事件より一年余り後の原審公判廷で、被告人はその男と似ているが同一人であるとまでは断言できない旨述べており、特信性の認められる池田政夫の検察官に対する供述調書によると、池田は、本件の二か月余り後に面通しを受けてそつくりであると述べていること、その者の着用していた衣類については、紺色の長袖スポーツシヤツ、これと同じような色のカーデイガン様の上着及びこれよりやや薄い紺色(池田政夫の検察官に対する供述調書による。)または焦げ茶色(証人野沢一男の供述部分による。)のズボンであることが認められるところ、被告人は、原審及び当審公判廷において、車内で着替えをした事実を供述しており、着替えた後の着衣等につき、紺のスポーツシヤツ、紺のカーデイガン、焦げ茶のズボン及びバツクスキンの靴であると述べているが、これは右野沢方に現れた者の服装におおむね符合していることが認められる。

以上のとおり、その男は、身体的にも、着衣の点でも、被告人と極めてよく似ていると認められるうえ、車両を遺留している者であるということができること、道に迷つて歩き、農道を経て野沢方に至つていて、疲労している様子であつたこと、佐世保(被告人は当時内妻と佐世保市内に住んでいた。)からきたと話していたことなどの点からすると、原判示のように右の男は被告人である疑いが非常に強いというにとどまらず、同一人と認めるに十分である。

五  犯人の体格、着衣等について

原審第四回公判調書中の証人井手友子の供述部分によると、犯人の身長は一六四センチメートルから一六七センチメートルくらいであり、がつちりした体格で、若くもなく、年老いてもおらず、ベージユに近い色のストツキングで口とあごの中間あたりまで覆面をし、着衣については、上は全体的に白つぽいベージユのような感じの色であり、下は紺のジヤージーのようなズボンであつたというのであり、また原審第六回公判調書中の証人橋口秀敏の供述部分によると、上は国防色のような茶色といつた色で、黒のようなものではなかつたというにとどまるものであるが、被告人が犯人であるとした場合には、身長、体格、年齢等については矛盾はないけれども、右野沢方に現れた男との服装の関係について検討する必要がある。

野沢方に現れた男の服装は前記認定のとおりであるから、被害者及び目撃者の右各供述が正しいとすると、犯行時の着衣との間には明らかな差異があることになる。一つには、被害者らの認識・記憶が不明確であるため、それらの供述に誤りがある可能性もあるが、野沢方に現れた男の服装が少なくとも全体に暗い色調のものであるのに対し、被害者らの現認にかかるそれが、上半身については明るい色調のものといえることに照らし、犯人が犯行時に着用していたものとは異なるものと認めるのが相当である。しかし、遺留車両の中に脱いであつたシヤツやズボンの色は被害者の供述するものに近く、チヨツキの色は目撃者の供述するものに近いものと認められるから、右の差異は、犯行後、被告人が被告人車両に戻つて着替えをしたとすれば、矛盾とするには当たらないこととなる。そして、前記のとおり、靴下遺留地点から市道に出て、人目につかないように川を渡つて尾根を越え、被告人車両に戻ることは、犯行後の比較的早い時点であれば十分可能と認められる。

弁護人は、仮に、これらの遺留車両の中から発見された衣類が犯行時に着用されていたとすると、犯人が山中に逃げ込むなどし、犯行の前後に草むらなどを歩いているのであるから、遺留車両にあつたこれらの衣類に草の実や山土の付着や繊維の断裂等が認められるはずであるのに、それらが認められないことを理由として、これらは犯人の着用していたものではないと主張するが、当審で取り調べた永田武明作成の鑑定書によると、確かにこれらの衣類には草の実や枯葉の類いのものの付着は認められないし、土砂の付着も特に認められないけれども、山中を通つたからといつて、殊に、シヤツやチヨツキのような上半身に着用するものについては、これらの付着がなければならないとはいいがたいし、ズボンについては、後記のとおり着替えなかつた可能性が考えられ、これらの衣類に付着した土砂、草の実、枯葉等があつたとしても、押収物として長期にわたり保管され、当審において鑑定に付されるまでの間に出し入れも少なからずされていることに徴すると、保管の過程でこれらが脱落してしまつたことも一応考えられるのであつて、鑑定の時点において、これらの付着が見られないからといつて、犯行時に着用されていたものではないとはいえない。

なお、被告人は着替えをした理由について、覚せい剤使用の犯人の服装を覚えられていたら困ると考えたため、すなわち変装のためであるというのであるが、夜間暗いところで覚せい剤使用の現場を垣間見られたというに過ぎないのに、変装の必要があるというのは不自然であり、本件犯行の際着衣を現認されたことを前提とすれば、変装のための着替えの必要性が容易に認められる。もつとも、司法警察員徳永快人作成の昭和五六年四月一六日付実況見分調書及び当審で取り調べ押収してある男物茶色皮短靴一足(当庁昭和六〇年押第一〇号の7)によると、車内に遺留されていた靴には、土砂の付着がほとんどなく、かつ遺留衣類の下側に置かれていたことが認められ、その点に照らすと、被告人が犯人であるとした場合に、靴は履き替えなかつたものというべきであり、また、犯人の着衣についての被害者の記憶が必ずしも明確ではないことをも考慮すると、上半身の着衣だけを着替え、ズボンは着替えなかつた可能性も否定し切れないと考えられる。

したがつて、着衣の点については、被告人を犯人と認めることの妨げにはならないというべきである。

六  ポリグラフ検査結果の証明力について

所論は、ポリグラフ検査結果については、前記の理由により、証明力もないというのである。

当裁判所は、ポリグラフ検査の結果を加味しなくても、被告人の有罪を認定することは十分可能であると考える。しかし、これに証明力が認められれば、被告人の有罪認定を補強する証拠となるのであるから、以下、検討を加える。

本件ポリグラフ検査書、原審第一四回公判調書中の証人原田富男の供述部分並びに当審で取り調べた鑑定人山岡一信及び同大西一雄のそれぞれの作成にかかる各鑑定書及び当審第一四回及び第一五回各公判調書中の証人山岡一信の供述部分及び同第一一回公判調書中の証人大西一雄の供述部分に、原審第一八回公判調書中の証人田口マキヨの供述部分を総合すると、ポリグラフ検査の質問表の構成については、被検査者が、他の者から聞き及ぶなりして認識を有している事項を緊張最高点質問法(POT)の質問事項とした場合には、犯人でなくても反応が現れることになるから、そのような事項は検査に先立ち被検査者に尋ねるなどの方法で除外するのが相当であるというのであるが、被告人の内妻田口マキヨは、本件犯行後まもなく警察官から遺留靴下を見せられている疑いがあり、そうだとすると、被告人は、右靴下について田口から聞いているものと考えられるから、犯人が逃走中に落とした物に関する質問(POT二)及び犯人が落とした靴下の色に関する質問(POT三)については、田口から聞いたことにより事前に知識を得ていた疑いがあり(被告人は、検査に先立ち、その点については知らないと述べているが、知つていると答えると疑いをかけられるのではないかと恐れて虚偽の供述をしたことも考えられないではない。)、そのために反応が出た疑いを払拭できないこと、犯人が被害者を連れ込んだ場所に関する質問(POT一)についても、被告人は当審公判廷において、被告人が無免許、酒気帯び運転の被疑事実により昭和五六年六月七日逮捕され、翌八日本件強姦致傷の被疑事実による逮捕状を執行された後本件ポリグラフ検査を受けた同月一二日までの間に、被害者を道路の下に連れ込んだことについて取調官から聞かれたと弁解しており、強姦致傷の被疑事実による逮捕からポリグラフ検査までの間に四日を経過していてその間に取調べがされていること及びこの弁解を否定するに足りる証拠もないこと、また、山岡鑑定によると、右POT三及び被害者が落とし犯人が拾つてやつた物についての質問(POT五)には裁決質問に対する反応が明確でないことを理由として、これらの質問について被告人に認識があるものと判定しがたいとしていることが認められ、したがつて、緊張最高点質問法のほとんどの質問の判定結果につき疑問の余地があることになり、犯人として犯罪事実についての認識があると断定すべき直接的、積極的証拠としての信用性を付与しがたいとしなければならず、また、対照質問法(CQT)については、本件ポリグラフ検査書によると、三個の関係質問のうち一個について反応が認められるとしているが、山岡鑑定によると、質問表の作成については問題はないとしながら、右反応ありと認められた分についても、反応の程度(三回質問が繰り返されたうち一回しか明確な反応がない。)からして特異反応があるとは認めがたいため判定困難としているのであつて、有罪意識についての関係質問のすべてに特異反応を認めがたいとしているのであるから、対照質問法についての原田富男の判定結果についても直ちに採用しがたいといわなければならない。そうすると、本件ポリグラフ検査の結果については、全体として未だ有罪認定の直接的、積極的証拠としての信用性を肯認するには足りないといわなければならない。もつとも、本件ポリグラフ検査の結果について信用性を肯認しがたいのは、POTについては主として質問構成の内容に問題が含まれているためであり、被告人の反応に乏しいためではなく、また、CQTについても、信用性を認めがたいのは、反応が全くないものではなく、これを特異反応として肯認できなかつたため判定困難という結論に帰したためであるから、このことは、被告人の有罪を認定する妨げになるものではなく、いわんや右証拠が逆に被告人の無罪を証明する証拠となるものではないことは勿論である。

七  その他の所論あるいは弁護人の弁論中に現れている主張のうち、主要な点についての判断

(一)  犯人が靴下を遺留した合理的理由がないとする点について

この点については、いかなる理由により捨てたものかを明らかにするに足りるだけの証拠はないものといわなければならないが、だからといつて、このようなことがありえないとすることはできない。関係証拠によると、遺留されていた靴下は、未だ新しいもので十分使用に堪えるものであり、発見された際の靴下の状態からすると、投棄されてから発見されるまでに経過した時間は短いことが窺われること、遺留場所は、人通りの少ない山中の小道であることが認められ、通常ならば、そのような場所に投棄することなく持ち帰り洗濯するなど再び使用するものであるから、投棄されているのは何らかの特別の事情によるものということができるが、犯人が逃走する過程において、このようなことがあり得ないとはいえず、敢えて推測するならば、たとえば、急斜面で歩きにくい山中を急いで逃走したため、土砂が入つたりして歩きづらくなり、たまたま別の靴下を所持していたために(本件では、長いストツキングを覆面用に所持していた。これを履かないで所持したままでいると、犯行が発覚するおそれが高いということも考えられる。)これに履き替えたとか、小道をそのまま下つて逃げ去つたように見せ掛けて、反対方向にある被告人車両の駐車地点まで帰着しようとしたためとかの理由も考えられないではないから、遺留の理由が明確でないことから、直ちに、右靴下が被告人の物であつたとする認定に疑いをさしはさむのは相当でない。

(二)  当審で取り調べた鑑定人小林宏志作成の鑑定書の鑑定人の鑑定能力について

弁護人は、鑑定人小林宏志の鑑定能力を争うが、当審第六回公判調書中の証人小林宏志の供述部分によると、同人は主として腐敗臭についての研究をした大学の名誉教授であり、警察犬による臭気選別を研究対象としていたものではないから、鑑定事項との関係で問題が全くないわけではないけれども、右鑑定は弁護人の請求で採用したものであるところ、臭気選別に関する鑑定については、警察関係者以外には、容易に専門的研究者を見いだしがたいために、それらの者を避けて人選をしようとすることには困難が伴い、鑑定の公平性をも考慮して右鑑定人を採用したものと解されるのであつて、同教授は、臭気一般に付いての専門的知見を有する点及び学理的方法による判断に優れている者として、通常人より優れた科学的な検討能力を有するものであるから、本件鑑定事項についての鑑定能力を有するものと認められる。しかし、右の事情を考慮して、当裁判所の判断を示すにあたつては、これに全面的に依拠することは避け、公刊されている他の文献等と合わせてその内容を慎重に検討し判断の資料とした次第である。

八  結論

以上に検討したとおり、本件各臭気選別検査の結果の信用性は高いと認められ、本件犯行時の前の被告人車両の通行の事実並びに同車の駐車及び遺留の事実及びその状況から推認できるところを総合すると、本件犯行の犯人は被告人であることを認めるに十分であり、その認定は関係証拠により認められる諸状況とも矛盾せず、その認定を妨げる方向に働く事情も未だ右認定に合理的疑いを抱かせるに足りないと認められる。原判決の認定経過の理由中には、一部当裁判所と異なる見解・認定も見られるが、原判示の罪となるべき事実は、その判示の被告人の本件犯行の前後の行動経過を含めて、その挙示する関係証拠により、これを認めることができるから、原判決には、結局事実の誤認はなく、所論のような法令適用の誤りもない。論旨は、理由がない。

以上のとおり、論旨はいずれも理由がないから、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、当審における未決勾留日数の本刑への算入については、刑法二一条を適用し、当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項本文に従い、全部これを被告人に負担させることとして、主文のとおり判決する。

別紙(本件現場付近略図)

〈省略〉

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